| 言葉の散歩道 |
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ことばの散歩道 子育ては親育て その4 同情 シャンソンには、一曲の中に人の人生を物語る歌もあります。昔、アダモが唄っていたシャンソンに、こんなものがありました。雪が降る、あなたは来ない。雪が降る、すべては消えた£Nでも自分を、孤独でみじめに感じることは、ふつうにあることです。しかし、一旦この感情に捉えられ、その中にひたってしまうと、美空ひばりの「悲しい酒」モードになって、そこから抜け出すことは、なかなかむずかしいものです。 さて、ドロシー・ロー・ノルトの「子供たちは、こうして生き方を学ぶ」という詩を紹介していますが、今月は、その4行目、「同情をいつも受けて育った子は、いつも自分をあわれむ子になります」です。「何で私なの?」「何でこうなの?」という感情が起こったとき、その気持ちが高じれば、自己憐憫のワナにおちいります。そこから、自分を生かすような力や良いものは、生まれません。十歳の娘が、泣きべそをかいて学校から帰って来て言いました。「自分だけ、花子ちゃんの誕生会に招待されなかった」この時、母親が、子供を不憫に思い、いっしょにがっかりしていたら、どうでしょう?母親が、安易な同情をかけるならば、苦しみの渦中にある本人を助けるよりも、むしろ、ますます本人をあわれに思わせる子にしてしまいます。反対に、母親が、しょぼんとしている子供の肩を抱きながら、こんな会話ができたらどうでしょうか。 「あなた一人だけ招待されなかったの?」 「ほかにも二人いるよ」 「ふーん、そうか。で、今夜はどうするの?」 「なにも...どうせ、つまんないだけ」 そこで母親は、子供が、自分をあわれに思うワナにかからないように、こう言います。 「それじゃあ、その二人を家に呼んで、スリープ・オーバーしたら?」 「じゃあママ、その時、3人でクッキー焼いてもいい?」 「それはいい考えね。きっと楽しいよ」 大人は、子供の感情を汲み取って、何かいい解決策を出せたらいいですね。子供の方から出れば、もっと良いでしょう。自己憐憫から、自己決定に向かわせるのです。 「五体不満足」(講談社)を書いた“オトちゃん”こと乙武洋匡君の経験した物語は、日本中にセンセーションを巻き起こしました。「先天性四肢切断。分かり易く言えば、“あなたには、生まれつき手と足がありません”という障害だ」しかし、「障害は不便です。だけど不幸ではありません」ということばを彼に言わせたのは、何だったのか。私が心からエールを送りたいのは「オトちゃん」にもだけれど「かわいいー母の口をついて出てきた言葉だ。母がボクに初めて抱いた感情は、『驚き』『悲しみ』ではなく『喜び』だった」と述べている彼のお母さんにだ。まさに「この母にしてこの子あり」(聖書)の、世界的なグッド・サンプルだと思います。それではまた、シャローム(Peace be with you in Jesus) カルガリー日系人福音教会牧師 谷口洋一
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