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My Personal History in Christ
谷口 洋一
1968年12月24日、この日は全世界が固唾を呑んで、ある出来事に注目していました。それは、月の裏側を初めて飛行したアメリカのアポロ宇宙船が、再び地球側にその姿を現わそうとしていたからです。宇宙から開口一番クリスマスの挨拶が送られてきました。続いて、なんと聖書の創世記1章が朗読されました。同時通訳を介して伝えられてくる天地創造の神の言葉を、その時、私は信仰によって聞きました。というのは、その10日前に私はクリスチャンになったばかりだったからです。
当時私は警察官になることが決まっていました。父親のいない自分にとって、何か自らを律し導くような対象を求めていました。それを補う意味で、単純に警察官を志望したのです。しかし、いざとなると自分の中は、ポッカリと穴があいていました。人生を生きていく精神的な地図を持っていない自分に不安を感じ始めていたのです。その上、自分の描く自分像に達成できない限界の中で苦しんでいました。その中で、アウグスチヌスの「私たちは神に向けて造られたものなので、神の中に憩うまで心に平安はない」という彼の告白と、また聖書の中のパウロの告白、「私は自分のしていることが分からない。自分の望んでいる善をしないで、かえって望んでいない悪を行っているからである。善をしたい意志はあるのに、それを行う力がないのである」という言葉が心にとまりました。小説の中では、夏目漱石の「こころ」、ドストエフスキーの「罪と罰」や「カラマーゾフの兄弟」をとおして、人間の罪を教えられました。そして、自分の中にも、創り主である神の前と人の前に罪があることを示されました。そんななか、当時、ラジオから流れていたキリスト教番組を聞き、『このお方に自分を賭けてみよう。もし、たとえそれで裏切られても、悔いはない』という覚悟で、キリストを信じる決心をしました。それはTEAMの宣教師であられたジェームズ・フレンズ氏が担当していた伝道番組でした。私は先生のラジオ伝道における救いの初穂でした。
アーメン。神は真実なお方です。「私の所に来るものを、私は決して捨てない」との主イエスの言葉は、あの時も今も変わらず、またこれからも変わらないことを知ることができました。その後、警察学校をやめ、キリスト教の出版社であるいのちのことば社で、4年働きました。浅間山荘事件や三島由紀夫の割腹自殺など、60年代の学生運動を始め、時代が揺れ動いていた頃のことでした。
私はもっと聖書を学びたいという願いを持つようになり、いのちのことば社を退職し、西宮市の関西聖書学院(KBI)で学びました。太田ゆみ姉は後輩にあたります。また、神学生時代の奉仕教会が栗山兄姉の所属していた和歌山の教会でした。何十年もたった今、カルガリーで偶然彼らにお会いできたのは、大きな驚きでした。神学校卒業後、自由クリスチャン伝道団の教会の開拓伝道を2年間、勝山市にある無牧の教会の伝道師を1年間しました。その後、名古屋に戻り、セラミックの会社で働きながら、救いの両親であるフレンズ師ご夫妻と共に、開拓伝道のお手伝いをさせていただきました。最初は名古屋の中心地である栄のビルの一室から始まった教会でしたが、名古屋市名東区に会堂を建て、その後その教会がまた、2つ目の教会を建てました。結婚した私たちは、その新しい教会である朝日聖書教会に遣わされ、フレンズ先生が退職され、アメリカに帰られたあと、その無牧の教会で10年間、役員のひとりとして、説教の奉仕や日曜学校の奉仕をさせていただきました。
1991年転職し、今度は12年間、知的障害者の施設職員として働きました。そんな中、2001年1月、昔伝道師をやっていた瀬戸サレム教会からの依頼で、礼拝説教の手助けをさせていただくようになりました。そして、2003年秋、『私達の霊的地境を広げてください』というヤベツの祈りをしていくなか、アメリカでの日系人のための開拓伝道の道を求めて、渡米しました。その10ヵ月後、「あなたのその力で行き・・・私があなたを遣わすではないか」(士師記6:14)のみことばを与えられ、この教会に遣わされた次第です。
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